ARBEIT MACHT FREI

─イヴァン・アレキサンドロヴィチ・ゴンチャロフの『オブローモフ』

 

「その気になりさえすれば、ぼんやりと心を外部に開いて、ただ退屈していればよいというのは気楽なことのはず。なにかをするための努力ではなしに、なにかをしないでいる抑制は必要かもしれないが、ナマケモノのための二十一世紀、なにごとかの気配を感じながらも、そのための準備なんか必要ない」。

森毅『余白の情報』

 

第一章 労働と日々

 イリヤ・イリイチ・オブローモフ(Илья Ильич Обломов)は、いつものように、目を覚ます。

 

 ゴローホヴァヤ街の相当な県庁所在地にも匹敵するほどの人口をもった一軒の大きな建物。その中の自分の住居で、ある朝、イリヤ・イリイチ・オブローモフはベッドで寝ていた。

 

イヴァン・アレキサンドロヴィッチ・コンチャロフ(Иван Александрович Гончаров)は、この主人公がベッドから起きてスリッパを履くまでに、一章を費やしている。ところが、第一章が終わっても、このペースは変わらない。『オブローモフ(Обломов: Oblomov)(一八五九)には、たいした事件も出来事もなく、ヴォルガ川の流れのように、静かに流れていく。この官吏の文体は、その仕事振りを想像させるように、呆れるほどテンポ悪く、だらだらと続いていく。新たな文体の実験もないし、破格の構成も見られない。イヴァン・セルゲエヴィチ・ツルゲーネフの作品に見られる古典的な調和ではなく、川底の泥のように、沈滞が全体を統合している。

主人公は、この文体以上に、やる気というものがまったく感じられない。「正真正銘の東方風のガウン」を着た彼の生活には規律も節制もない。ものぐさで、朝目覚めても、寝床から起きあがらないまま、一日をすごしてしまうことさえ少なくない。自宅に引きこもり、救いようのない平凡さと無気力に貫かれている。otium cum dignitate.動物と言うよりも、植物のように生きている。「生物というものは、眠っているのが本来の生活で、よく眠るために、起きて食物などを補給する、という説を聞いたことがある。まあ、そこまで言わなくても、起きている時間を、寝ている時間より特権視しなくてもよかろう。寝たり起きたり、その全体で人生を送っているのだ」(森毅『ごろごろ』)

 

When I wake up early in the morning

Lift my head, I'm still yawning

When I'm in the middle of a dream

Stay in bed, float up stream (float up stream)

 

Please, don't wake me, no, don't shake me

Leave me where I am - I'm only sleeping

 

Everybody seems to think I'm lazy

I don't mind, I think they're crazy

Running everywhere at such a speed

Till they find there's no need (there's no need)

 

Please, don't spoil my day, I'm miles away

And after all I'm only sleeping

 

Keeping an eye on the world going by my window

Taking my time

 

Lying there and staring at the ceiling

Waiting for a sleepy feeling...

 

Please, don't spoil my day, I'm miles away

And after all I'm only sleeping

 

Keeping an eye on the world going by my window

Taking my time

 

When I wake up early in the morning

Lift my head, I'm still yawning

When I'm in the middle of a dream

Stay in bed, float up stream (float up stream)

 

Please, don't wake me, no, don't shake me

Leave me where I am - I'm only sleeping

(The Beatles “I'm Only Sleeping”)

 

この読者を唖然とさせる小説の作者の人生もまたドラマティックではない。ゴンチャロフは、一八一二年、ヴォルガ川沿岸の小都市シンビルスクでロウソク工場を経営する富裕な穀物商の家庭に次男として生まれている。彼が七歳のとき、父が亡くなり、早くから寄宿塾に送られ、ドイツ語とフランス語をマスターする。しかし、家業を継ぐために入れられたモスクワ商業学校は、彼の性格に合わず、退学し、一八三一年、モスクワ大学文学部に入学する。このころ、アレクサンドル・セルゲエヴィチ・プーシキンに感銘を受けている。卒業後、故郷の県知事秘書となったが、一八三五年、オブローモフ同様、サンクト・ペテルブルクに出て、大蔵省外国貿易局の翻訳官として勤務する。以後約三〇年間官吏生活を続ける。その間、エフフィーミー・ヴァシリエヴィチ・プチャーチン提督の秘書官として、一八五二年から五四年まで世界就航に同行し、幕末の長崎を訪れている。この旅行記を一八五八年に『フリゲート鑑パルラダ号(邦題日本航海記)』として発表する。一八五三年に始まり五六年に終わったクリミア戦争敗戦後の自由化政策の一貫として、リベラルな立場で知られていたため、五六年には、検閲官に任命される。

 

クリミア戦争のとき、至るところで明るみに出た兵士による略奪行為に憤慨したニコライ一世は後継者の息子にこう言った、

「どうやら国中で泥棒をしないのは、私とお前だけらしいな」。

(川崎(とおる)『ロシアのユーモア』)

 

生涯独身のまま、一九八一年に肺炎で亡くなる。「死は決して怖いものじゃなくて、素晴らしい経験だ。それを思うと、かつて味わったことのないほどの安らかさが心の中に吹き込んでくる」(ゴンチャロフ『平凡物語』)

アカデミー画家のニコライ・マイコフと知り合ったことが、ゴンチャロフを文学者として歩ませる。彼はマイコフ家の子供たちの家庭教師を務め、当時、サンクト・トペテルプルグでは最も名の知れた文学サロンだったマイコフ家のサロンに出入りするようになる。このサロンの手書きの雑誌にゴンチャロフは詩や中篇小説を発表する。一八四六年に書き上げられ、空想家の主人公と実務家の叔父を対立させ、やがて変貌していく過程を描いた小説『平凡物語』は、ヴィサリオン・グレゴリエヴィチ・ベリンスキーに「ロマンチシズム打倒の作」と激賞されて、翌年『同時代人』誌に掲載され、ゴンチャロフのデビュー作となる。

同時代を描き、人物の性格描写に優れたリアリズム作家として当時は知られていたが、その作品のほとんどが今では忘れられている。遅筆だったため、作品の数も少ない。『オブローモフ』以外では、デビュー作や『断崖』(一八六九)がある。フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの『貧しき人々』(一八四六)と並んで答辞話題になった『平凡物語』にしても、ロシアで広く支持されていたニヒリズムを批判的に捉えた『断崖』にしても、作家自身はこの三作には内的関連性かあると言っているが、研究者を除けば、まず読むものはいない。もっとも、本人はイヴァン・セルゲエヴィチ・ツルゲーネフの『父と子』(一八六二)やギュスターヴ・フローベールの『感情教育』(一八六九)をその『断崖』の盗作と信じて疑わなかったようである。「さて、何をあなたに言おうと思ったのかなあ」(『父と子』)。

 しかも、『オブローモフ』は、『戦争と平和』(一八六五−六九)や『カラマーゾフの兄弟』(一八七九−八〇)といったロシア文学の傑作と言われる長編小説と比べて、決して長くはない。けれども、そののんべんだらりとした『オブローモフ』一作によって、ゴンチャロフの名前は文学史に残ったのである。

 

I read the news today oh boy

About a lucky man who made the grade

And though the news was rather sad

Well I just had to laugh

I saw the photograph.

He blew his mind out in a car

He didn't notice that the lights had changed

A crowd of people stood and stared

They'd seen his face before

Nobody was really sure

If he was from the House of Lords.

I saw a film today oh boy

The English Army had just won the war

A crowd of people turned away

but I just had to look

Having read the book.

I'd love to turn you on

Woke up, fell out of bed,

Dragged a comb across my head

Found my way downstairs and drank a cup,

And looking up I noticed I was late.

Found my coat and grabbed my hat

Made the bus in seconds flat

Found my way upstairs and had a smoke,

Somebody spoke and I went into a dream

I read the news today oh boy

Four thousand holes in Blackburn, Lancashire

And though the holes were rather small

They had to count them all

Now they know how many holes it takes to fill the Albert Hall.

I'd love to turn you on

(The Beatles “A Day In The Life”)

 

文学史上最高の怠け者は、サンクト・ペテルブルクに住んでいる。年齢は三二歳か三三歳、小太りで、白い小さな手はふっくらしていて、物憂げな感じを漂わせている。貴族の彼は、幼い頃から身の回りのことなどすべて使用人が世話してくれるので、靴下や靴を自分で履くこともできない。

田園の広がる小さな田舎の村から、一二年前にペテルブルクに出てきて、二年ほど役所に勤め、一〇等文官となったが、人ごみや混雑が極度に苦手で、人と争ったり、あくせく働いたりするのを好まないため、役所勤めを辞め、それ以来、埃だらけの寝室兼書斎兼客間になっている部屋に引きこもり、ほとんど一日中ベッドに横になっている。新聞も雑誌も読まず、世の中のことを知りたいとも思わない。大学で法学を学んだものの、法律が社会でどう役立つのか皆目見当がつかないので、研究しようという気も起こらない。父親から受け継いだ領地から送られる金で無為の毎日をすごしている。

友人たちからパーティーに誘われても、「ここにいるのがいい気持ちなら、どうしてほかへいく必要があるだろうか」と言って、ベッドから出ようとしない。友人たちが一日中仕事ばかりしている姿に対し、「なんて不幸せな連中だ」と呆れている。

仕事こそ人生の目的と考えている親友シュトルツは、「今この機会を逃したら永久に立ち直れない」とオブローモフを社交界へ連れ出す。そこで、彼は、シュトルツから紹介されたオリガという美しい女性に恋をする。オブローモフの目には輝きが現われ、オリガを妻として領地で幸福な生活を送ることを夢見るようになる。オリガも彼の無垢さに惹かれる。シュトルツがヨーロッパに旅立つ前、オリガに託したオブローモフの救済は成功するかに見えたが、オブローモフの優柔不断のためにすべては水疱と帰し、彼は再び以前の怠惰な生活に戻ってしまう。

オリガはそうした態度のオブローモフに次のように言っている。

 

「イリヤ、あなたは誰に呪われたのでしょうね。何をしたんでしょうね。

あなたは善良で優しくて上品なんだけど、滅びてゆくのね。

あなたは何に滅ぼされたのでしょう。その悪には名前がないわ」。

 

 それに対し、「あるよ」と小さな声でイリヤはこう答えている。「オブローモフシチナ(Обломовщина)だよ」(この「オブローモフシチナ」は、文脈に応じて、「オブローモフ気質」とも「オブローモフ主義」とも訳されるが、「オブローモフ病」という訳語も可能であろう)

オリガはシュトルツと結婚する。他方、家主のプシェニーツィン未亡人と忠実な使用人夫婦から献身的な世話を受け、オブローモフは、幸福に暮らすという自分の理想は実現されたのだと満足する。こうしてオブローモフは、仕事や争いとは無縁な社会の片すみで、人々から忘れられて、脳卒中を患い、静かに死んでいく。

シュトルツは、オブローモフの死について親友から質問され、次のように答えている。

 

「どうだい、あの乞食の身の上話を聞いただろう」とシュトルツが親友に言った。

「ところであいつの言っていた、イリヤ・イリイッチというのはいったい何だい」と文学者がたずねた。

「オブローモフだよ、僕は何度もあの男のことを話して聞かせたじゃないか」

「うん、名前は覚えているよ。あれは君の学友で親友だったね。その後どうなったかね」

「死んじゃったよ。まったく犬死さ」

シュトルツは溜息をついて考えこんだ。

「それでいてほかの者より馬鹿じゃないし、心はガラスのように澄みわたって、上品で、やさしくて、それでいて犬死しちゃったんだ」

「いったいどうしたんだ。どういう原因があったんだ」

「原因……どういう原因だって!オブローモフシチナさ!」とシュトルツが言った。

「オブローモフシチナだって!」と文学者が面くらって、口まねした。「それはいったい何だね」

「今話して聞かせるよ。ちょっと考えをまとめて、思い出させてくれ。君はそれを書きとめるがいい。ひょっとすれば誰かの役に立つかもしれないから」

そして彼はこの本に書いてあることを話して聞かせた。

 

第二章 労働と余計者

彼を生かしていたのも、殺してしまったのも、すべて「オブローモフシチナ」である。主人公の文学史上に比類ない怠惰と無気力によって、センセーションを巻き起こす。人々の間で「オブローモフシチナ」が流行語になり、「オブローモフ」は怠け者を指す代名詞とさえ見なされ、さまざまな作家や知識人も、この話題作に関して、意見や批評を加えている。

『オブローモフ』に対するロシア文学を代表する二大巨頭の評価は興味部深い。レフ・ニコラエヴィチ・トルストイは「久しく見かけなかった偉大な作品」と絶賛した一方、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは「嫌悪すべき作品」とこきおろしている。モスクワ出身の文豪の『地下室の手記』(一八六四)の語り手は、オブローモフと同じように、自宅に引きこもっているが、それ以外の点では、オブローモフとは正反対である。「地下室の住人」は「独白の哲学」を披露し、傲慢で、ドロドロとした欲望に満ち、外界に対して攻撃的である。アスターポヴォ駅で倒れた文豪は、後のトルストイ主義が示しているように、受動性=消極性を認めるのに対し、ギャンブル依存症の文豪は能動性=積極性を尊ぶ。『オブローモフ』の評価が分かれるのは両者の志向の違いに由来する。

また、『オブローモフ』はニキータ・ミハルコフ監督が『オブローモフの生涯より(A Few Days of I.I. Oblomov's Life: Нескопько аней из жизни И.И. Обломова) (一九七九)として映画化しているが、ロシア文学に強い影響を受けた黒澤明は、次のように賞賛している。

 

この映画は実に瑞々しい。映画の中を爽やかな風が吹き抜けているようだ。思うにそれは、原作の新鮮な文学精神に触発きれたニキータ・ミハルコフの若々しい映画精神の所産だろう。私は、その無垢な映画精神に感動した。

 

 映画史上最大の巨匠の一人が撮った映画には、オブローモフ的な登場人物が出てくる。『生きる』(一九五二)において、左卜全が扮した市民課課員の小原はオブローモフ的であり、その存在により志村喬が演じた渡邊勘治のようなファウスト的な人物を浮き上がらせている。また、最後の『まあだだよ』(一九九三)でも、次のような歌を発表している所ジョージを使っている。

 

働く気もなきゃ銭もない だけど会社も休まない。

空気みたいに この世に浮かぶ

早い話が 何を言われようと 私は空気

金を返せのその声は 空気だから聞こえない。

 

長生きする為に生きている だからあんまり動かない

丸太みたいに ゴロゴロ暮らす

早い話が 何を言われようと 私は丸太

働きなさいのその声は 丸太だから聞こえない。

 

何から何までうまくいく うまく行かなきゃ笑ってる

笑顔ひとつで 世の中わたる

早い話が 馬鹿にされよと ニコニコしてる

反省しなさいのお叱りは 悪気がないから聞こえない。

 

ブスなあの子に声かけて これでもいいやという時に

顔のきれいな 女をみかけ

早い話が 僕の場合 キレイ好き

ブスをけとばしてふくろだたき 泣いてはどじょうを困らせた。

(『まったくやる気がございません』)

 

『オブローモフ』をめぐる批評の中で、最も重要かつポピュラーなのは、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ドブロリューボフ(Николай Александрович Добролюбов)が、一八五九年に発表した『オブローモフ気質とは何か(Что Такое Обломовщина?)』である。

彼は、オブローモフ研究において不可欠であるこの基礎的文献の中で、オブローモフについて次のように批判している。

 

こうしたさまざまな問題について考えてみることもなく、世間や社会にたいする自分の関係を明らかにすることもなかったので、オブローモフはむろん自分の生活を意味あらしめることもできなかった。そしてそれゆえに彼は、自分で何かをしなければならなくなると、いつも悩み悲しむのであった。

 

さらに、農民革命による社会主義者社会の建設を目指していたこの若き批評家はシュトルツのような行動的人間こそが社会を変革でき、今のロシア社会の求める人間像であるとして、オブローモフを一九世紀ロシア文学における農奴制によってスポイルされた「余計者」の系譜にあると指摘している。その上で、ニコライ・ヴァシリエヴィチ・ゴーゴリの『死せる魂』(一八四二)に出てくるチェンチェートニコフやイヴァン・セルゲエヴィチ・ツルゲーネフの『ルージン』のルージンらもオブローモフ主義者に属していると糾弾する。「ルージンは自分の計画している論文や著述の始めの数ページを選ばれた少数の者に読んで聞かせることを好んだ」。「一般にオブローモフ主義者たちは何ものをも要求されることのない田園詩的な、動きのない幸福に心を惹かれる」。

ゴンチャロフも気鋭の批評家の意見に同意している。「私はオブローモフの性格のうちに、ロシア的人間のある幾つかの本源的特質を入れた」。ドブロリューボフはわずか二五歳で急逝するが、カール・マルクスは「レッシングおよびディドロに匹敵する著述家」と評し、フリードリヒ・エンゲルスも彼をニコライ・ガブリロヴィチ・チェルヌィシェフスキーと並べて「二人の社会主義的レッシング」と呼んでいる。ドブロリューボフは、オブローモフ的人間を糾弾しつつも、コンチャロフに対して「彼の客観的創造はいかなる偏見や既定の理念にもかきみだされず、いかなる一方的な同情にも左右されない」と絶賛し、オブローモフに見られる行動力の欠如・無気力・無関心・怠惰が特異な現象ではなく、ロシアの知識人が直視しなければならないロシア的性格そのものであると指摘する。「芸術家によって創造された形象は、レンズの焦点のように、実生活のもろもろの事実を集約することによって、事物に対する正しい理解を人々の間に形成し広めることに、はなはだ多くの寄与をする」。

「余計者(Лишний Человек)」はロシア文学にしばしば登場する人物である。彼らは社会に適応できず、自分の才能や感性を生かすこともできずに退屈し、無為と怠惰に陥る。「余計者」はロシア文学に限らず、ウィリアム・シェークスピアのハムレットやヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテのヴェルテル、ジョージ・ゴードン・バイロン卿のチャイルド・ハロルド、日本の私小説の主人公なども、広義の「余計者」に含まれる。しかし、「余計者」は一九世紀のロシアで独自の発展を遂げ、文学上の系譜となっている。

「余計者」は一九世紀ロシア文学に見られる貴族知識人の一典型であり、この名称はツルレーネフの『余計者の日記』(一八五〇)に由来する。ただし、その系譜の最初には、ロシア文学の創始者アレクサンドル・セルゲエヴィチ・プーシキンの『エフゲーニー・オネーギン』(一八二三─三一)のオネーギンが挙げられ、ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフの『現代の英雄』(一八四〇)のペチョーリン、アレクサンドル・イヴァノヴィチ・ゲルツェンの『誰の罪か』(一八四〇)のベリトフ、ニコライ・アレクセエヴィチ・ネクラーソフの『サーシャ』(一八五六)のアガーリン、ツルゲーネフの主人公たちと続く。中でも、『余計者の日記』のチェルカトリンや『ルージン』(一八五六)のルージン、『貴族の巣』(一八五九)のラブレツキーが最も代表的である。さらに、「余計者」は時代と社会の変化と共に複雑化し、アントン・パブロヴィチ・チェーホフの主人公に引き継がれる。また、フランスのバンジャマン・コンスタンの『アドルフ』(一八一六)のアドルフやアルフレッド・ド・ミュッセの『世紀児の告白』(一八三六)のオクターブも西欧文学における「余計者」のヴァリエーションである。「余計者」は西欧から流入してくる新たな思想を吸収するものの、表層的に受容しているにすぎないため、ロシアの後進性に対して冷笑的で、政府や自分の所属する貴族階級にシニカルな態度をとるだけでなく、民衆からも遊離してしまっている。

「余計者」が一九世紀のロシアで発展した理由はツァーリズムと農奴制に基づいた地主貴族の存在という社会的な背景にある。逡巡しながらではあるものの、近代化がロシアでも進み、社会が大きく変動しつつある。ところが、彼らは不労所得によって生活できたため、経済的にも時間的にも余裕を持っていても、専制的な帝政ロシア体制下で言論や社会活動を厳しく抑圧され、能力を十分に発揮できない。貴族たちが流暢にフランス語で会話を交わし、使用人に命令を下すときだけ、ロシア語でぎこちなく話すという滑稽な状況に変化はない

しかし、「余計者」の系譜は、社会構造が変化した二〇世紀にも受け継がれている。ロシア革命後のソ連文学で、「余計者」は、新しい社会主義体制に順応できない知識人の問題として、新たな意味をもって浮かび上がってくる。ユーリー・カルロヴィチ・オレーシャの『羨望』(一九二七)のカヴァレーロフや、ボリス・レオニードヴィチ・パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』(一九五七)のジバゴも典型的なソ連版の「余計者」である。

近代以前には、「余計者」は存在しない。これは、一九世紀ロシア文学に典型的に登場したとしても、近代の現象である。封建時代、GWF・ヘーゲルが『精神現象学(Phänomenologie des Geistes)(一八〇七)の「主人と奴隷」で語っているように、主人と奴隷はお互いに依存しているが、近代になると、自立に対する強迫観念が生じる。資本主義体制は依存しあっている状態であるにもかかわらず、職業選択・商取引の自由により、自立していると思わせる。それ以前、芸樹家は職人と未分化であり、パトロンの依頼によって絵画を描く。パトロンもそれを売却目的で依頼などしない。自分が太っ腹であり、芸術がわかることを世の中に知らしめるためである。絵画の作成にしても、芸術家一人で行うのではなく、パトロンや神学者、有力者の助言の方が重要な構成要素であり、芸術家の作業はごく限られたものである。資本主義社会に突入すると、芸術家もパトロンから自立し、市場経済の中で、生活していなければならない。そのため、生前には認められない才能が登場する。

 森毅は、『清貧より優雅』において、近代以前の知識人と俗との関係を次のように述べている。

 

鴨長明とか、与謝蕪村とか、そうした人の生き方に憧れている。都の俗を避けて山にいるようで、加茂の祭ともなれば、浮かれている長明が好きだ。蕪村だって、南の芝居を欠かしたことがない。俗を捨てたと言いながらも、ときにはだれかに馳走になって、俗を楽しまぬでもない。世俗にこだわらなかっただけのことで、なんとも優雅だ。

考えようによっては、これは俗に寄生することでもある。雅の人だらけになったら、世の歯車はまわらないだろう。俗あっての雅である。だから、俗を敵にしては優雅になれない。

 

雅の人のいいのは、俗のなかの雅として、世のバランスを支えているからである。そして、世の中のこととよりなにより、雅の人を眺める自分自身にとって、俗に生きる自分に雅の風穴があく。

 

産業資本主義がまだ途上であった一九世紀半ばの知識人の中には、鴨長明や与謝蕪村のような生き方をしていたものもいる。ゼーレン・キルケゴールは、定職につかず、相続した遺産で暮らしていたし、カール・マルクスは遺産とさらにフリードリヒ・エンゲルスの援助によって生計を立てているし、また、病弱だったフリードリヒ・ニーチェは年金生活を送っている。「余計者」は近代の矛盾が生み出したイデアルティプスであって、その極端な例がオブローモフにほかならない。

 

第三章 労働と失業

夭折の批評家が賞賛したシュトルツは、その姓が示している通り、父がドイツ人である。ドイツ式の教育を受け、エネルギッシュで、行動的な彼は、あらゆる意味で、近代を体現している。

ゴンチャロフは、この勤勉な若者について次のように記している。

 

空想ばかりでなく、すべて謎めいたもの、神秘的なものは、彼の心にすむべき場所がなかった。経験という実践的真理の分析にかけられないものは、彼の目から見て光学上の偽り、視覚機関の網膜に映じた光線と反射にすぎなかった。さもなければ、経験の順番がまだまわらずにいる一事実と見るよりほかなかった。

 

 シュトルツは、オブローモフに「人生は一瞬のうちにちらりと過ぎ去っていくのに、この男ときたら横になって寝たいだなんて!…人生は絶え間ない燃焼じゃなくちゃいけないんだ!」と言っている。シュトルツには、幼馴染であったとしても、オブローモフの姿勢をまったく理解できない。人間としてはいい奴だと思いながらも、こんなにものぐささでは人生が完全に無駄になってしまうとかけがえのない友人を見ている。シュトルツの強固な価値観が揺らぐことはない。その点では、オブローモフ以上に変化しない。シュトルツは、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を追求している。

 

It's been a hard day's night, and I been working like a dog

It's been a hard day's night, I should be sleeping like a log

But when I get home to you I'll find the things that you do

Will make me feel alright

 

You know I work all day to get you money to buy you things

And it's worth it just to hear you say you're going to give me everything

So why on earth should I moan, 'cause when I get you alone

You know I feel ok

 

When I'm home everything seems to be right

When I'm home feeling you holding me tight, tight

 

Owww!

 

So why on earth should I moan, 'cause when I get you alone

You know I feel ok

 

You know I feel alright

You know I feel alright

(The Beatles “A Hard Day's Night”)

 

『オブローモフ』には、いくつかの明確な対立点が描かれ、それらが決して止揚されることなく、最終的に、一方が苔に埋もれていくようになっていく。オブローモフがロシア的・受動的・消極的・静的であるとすれば、シュトルツは西欧的・能動的・積極的・動的である。ところが、ぼんやり生きているオブローモフの方が魅力的であり、人に紹介するときには魅力たっぷりであるはずのシュトルツは退屈である。実際、シュトルツがそれを無駄死にと見なしていても、オブローモフも満足して死んでゆく。さらに、オリガとプシェニーツィン未亡人の間のコントラストもそれを重層的に浮き上がらせている。この設定は、ロシア文学以外では、陰湿な作品になっていただろう。ロシア文学では、通常、「余計者」が登場する作品では、それと対比する性格の女性が描かれる。『エフゲーニー・オネーギン』のヒロインのタチヤーナのように、健気で、決断力のあるしっかりした女性が男性の「余計者」と対照的に表われる。「余計者」と並行して存在する独自のヒロイン像も、ロシア文学に特徴の一つである。『オブローモフ』のオリガも、プシェニーツィン未亡人も、こうした女性である。オリガはオブローモフに次のように言っている。「イリヤ、あなたは優しくって…まるで鳩みたい。だから翼の下に頭をかくして、──なんにもほかに望みがないんですわ。あなたは、一生、屋根の下でくっくっと鳴いていたいんでしょう…ところが、あたしはそんな女じゃありません、あたしそれだけじゃ満足できませんわ、まだ何か必要なものがあります、それが何かってことは、──自分でも分かりません! それが何だか、私に教えることがおできになって? その不足なものを名指して、それをあたしに授けることがおできになって? そして、私を…優しい愛情なんて…それだけのものならどこにだってありますわ」。若く美しい思慮深きオリガは、ナイス・ガイのシュトルツと結婚する。何一つ不自由しないものの、味気ない思いに囚われ、気が晴れない。逆に、オブローモフに関してはすべてを無批判的に受け入れるプシェニーツィン未亡人はハッピーで、充実して生きている。それは、あたかもロシアの「母」の勝利である。ロシアの「母」は、現在でも、チェチェン戦争の際に、息子を戦場に行ってつれて帰るという逞しさを見せている。シュトルツが父性原理で生きているのに対して、オブローモフはそうしたロシアの「母」を選んでいる。オブローモフも、プシェニーツィン未亡人も、世間がどう思っていようとも、その生は言いようもないほどの満足に溢れている。

シュトルツが理想として疑わない生き方は、マックス・ヴェーバーの唱える本来の資本主義的精神に基づいている。マックス・ヴェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der “Geist” des Kapitalismus)(一九二〇)において、カルヴィニズムを始めとするプロテスタンティズム諸派の禁欲的「倫理」が近代ヨーロッパにおける資本主義の発展の精神的推進力となった資本主義の「精神」との間に内面的連関を持っていると主張する。資本主義が「プロテスタンティズムの倫理」の所産であるとか、もしくは「プロテスタンティズムの倫理」がそのまま「資本主義の精神」と同一であるとか言っているわけではない。ヴェーバーの資本主義は、自由な賃金労働者の労働に基づく「合理的、経営的な産業組織」、さらにこの組織の普及により、社会の「欲求充足がもっぱら市場関係と収利性を指向しながら遂行される」にまで至る営利経済である。「資本主義の精神」はベンジャミン・フランクリンの「時は貨幣であることを忘れてはいけない、云々」以下、勤勉や労働、質素、正直、信用といった徳目についての有名な道徳訓が示している「精神」あるいは「倫理」である。合衆国の国父の一人が説く「信用のできる正直な人という理想」、中でも「自分の資本を増加させることを自己目的と考えることが各人の義務だという思想」は一つの「倫理的態度(エートス)」の表明であり、これが「資本主義の精神」にほかならない。

 資本主義成立以前、ウィリアム・シェークスピアのユダヤ人の金貸しを貶める『ベニスの商人』(一八九七?) が示している通り、利潤追求は、必ずしも、キリスト教倫理に沿うものではなかったが、近代に至って、そういった伝統は克服され、経済的営為が倫理に反しないと転換する。その際に寄与したのが、ヴェーバーによると、宗教改革以後の「プロテスタンティズムの倫理」である。これは欲望を追求する資本主義と禁欲的なプロテスタンティズムは同一だという意見ではない。プロテスタンティズムは「資本主義の精神」の誕生時に、産婆役として「その揺籃を見守」り、倫理的態度の注入に貢献したのである。ただし、発展していく「資本主義の精神」の中にはプロテスタンティズムの信仰は「亡霊」としてしか残っていない。

 プロテスタントには、カトリックにはない「職業召命観」という倫理的観念があり、これが資本主義誕生の産婆役になれた理由である。ただ、一四世紀初頭から書かれ始めたとされるダンテ・アリギエリが『神曲』における煉獄下方第四冠として怠惰者を描いているけれども、プロテスタントの多くは、大罪と小罪を区別するカトリックと違い、その煉獄の存在を認めていない。マルティン・ルターにも見られるが、ジュネーブのジャン・カルヴァンが「恩寵による撰びの教説」を導入して、より完成させ、決定的な教説に仕立て上げている。人間の救済は神の絶対的に自由な決定により定められ、自分が恩寵によって聖別されていることを現世での労働と隣人愛の日々の実践を通じて証明しなければならない。神は判定を明かさない。それを知りたいなら、労働をその基準に据えるべきだ。失業は、このため、倫理的な罪となる。かつて修道院にあった「祈り、かつ働け」という禁欲的生活態度は、そのまま「世俗内」に移され、「世俗内的禁欲」として「職業労働」が聖化される。

 そんな教義を信仰するカルヴァン派の教会は、クリスティ・デイビス=安部剛の『エスニックジョーク』によると、次のようなジョークを生み出している。

 

 アイオワ州にあるデイフォームド教会の牧師が、礼拝式の終わりに、自らの帽子を会衆の間に回して献金を募ったが、帽子が牧師の元に返ってきたとき、中には何も入っていなかった。牧師は天を仰ぎ、こう言った。「主よ、感謝します。私の帽子がちゃんと私の元に返ってきたことを」。

 

 こうした厳格な禁欲的職業労働の倫理を説くカルヴィニズムが伝道され、根をおろしていったのは、地主とか富裕な大商人階層ではなく、中産階級である。豊かではないとしても、生産手段を所有する独立小生産者、すなわち農村の自作農や都市の独立職人によって代表される中産階級である。資本主義は中産階級のための経済として確立する。カルヴィニズムは、こうした人々の生活倫理として深く浸透してゆく。中産階級におけるこの職業労働の組織化・合理化に集約される「エートス」には、当時の大商人階層の無倫理的な、「賤民(パーリア)」資本主義的な「貨幣と財との追求」に対する嫌悪の念がはっきりと認められる。「中でも、カルヴァンは、ルター以上に西欧キリスト教社会の中に宗教的熱狂を持ち込んだ人物だった。彼は、一六世紀のジュネーブを拠点にし、初期資本主義特有の中産階級の不安と期待に根ざす形で、教えを説いた改革者であった。と同時に、自らの政敵を粛清しながら、ジュネーブ市政をそれこそ禁欲的プロテスタンティズム一色に染め上げた宗教政治家としてでもあった。それは、絶えざる戦いの連続だった。とりわけ、カルヴァンに猛然と噛みついた自由主義者たちとの抗争は至烈を極めた。無理もない。カルヴァンの専制支配ほど、過酷なものはなかったのだから。()まさに、これ以上ない全体支配である。しかも、たんなる政治的全体支配でなく、精神的全体支配でもある。外面・内面への全体支配──ここジュネーブでは、おおよそ、考えられる限り最も過酷な支配体制が貫かれていた。たとえて言えば、この苛烈さは社会主義治下の全体支配にも比せられる。ジュネーブから送り出される活動家が、コミンテルンの活動家同様に、理想と熱狂のただ中でヨーロッパ各地に派遣され、その政治的動向に多大な影響を与えていった点でも類似している。したがって、宗教改革(プロテスタント革命)とは、それまでの教会支配をさらに過酷な宗教支配に置き換えただけのことであった。とりわけカルヴィニズムの場合はそうである。なぜなら、それ以前の教会支配が神と人間の執り成しを許容した体制であったのに対し、禁欲的プロテスタンティズムとは神からの直接支配を何らかの執り成しも期待せずに受容することであったからだ。これが、『神から串刺しにされた者』と言われるプロテスタントの姿であった」(小滝透『キリスト教』)。バーゼルの貧しき人文主義者セバスチャン・カステリオンは、カルヴァンに対抗し、『異端者について。これを迫害すべきや』において、「人を殺すことは教義を守ることにはならない。それはあくまで人を殺すことなのだ」と書いている。

 禁欲的・組織的に職業労働に従事すれば、富が蓄積されるが、原理上、これを享受することは許されない。職業義務の遂行は神の命令であるから、「正直な労働から得られた利得は神の賜物である」と正当化され、利潤獲得の機会は神の摂理であると意味づけられる。「プロテスタンティズムの世俗内禁欲は、無頓着な所有の享楽に全力をあげて反対し、消費、ことに奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は、心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放ち、利潤の追求を合法化するのみでなく、これを直接神の意志にそうものと考えることによって、その桎梏を破砕してしまった。……肉の欲、外物への執着との闘争は決して合理的営利との闘争ではなく、所有の非合理的使用に対する闘争なのであった」。 このような消費の圧殺と営利の解放は「禁欲的節約強制による資本形成」に行き着く。「一九〇七年のパニックの時には、JP・モルガンはさらに率直な手段に訴えました。ニューよ−ク・シティのプロテスタントの牧師たちを集めて、次の日曜日には民衆にお金は銀行に預けたままにしておくよう説教してくれと求めたのです。いまや信仰を確認すべき時であり、そこには銀行精度に対する信仰も含まれていたのです」(ジョン・K・ガルブレイス『不確実性の時代』)

けれども、「富が増すとともに高慢、激情、そしてあらゆる形での現世への愛着も増してゆく」。当初、禁欲的プロテスタンティズムと未分離のまま結びついていた「資本主義の精神」は、次第にその宗教的外套を脱ぎ捨てる。神の死と共に、職業倫理から信仰の根拠が失われ、神の姿が稀薄となり、富そのものが前面に出てくる。職業倫理は形骸化し、その形骸が啓蒙主義的人間中心主義と直結して、そこにフランクリンやアダム・スミスの描く「経済人」の理念、すなわち倫理と経済の調和の原理が普及する。「資本主義の精神」は禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理からその宗教的基礎づけが消失している。「近代資本主義の精神の、いやそれのみならず近代文化の本質的構成要素の一つたる職業観念の上に立った合理的生活態度は……キリスト教的禁欲の精神から生まれ出たものだ」。

 この認識を踏まえて、ウェーバーは現在および将来への展望を次のように書いている。

 

─〔かつて〕ピューリタンは職業人たらんと欲した。〔しかし、今日〕われわれは職業人たらざるをえない。なぜというに、禁欲は僧房から職業生活のただ中に移され、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは機械的生産の技術的・経済的条件に縛りつけられている近代的経済組織の、あの強力な世界秩序(コスモス)を作り上げるのに力を添えることになったからである。この世界秩序たるや、圧倒的な力をもって、現在その歯車装置の中に入り込んでくる一切の諸個人─直接に経済的営利にたずさわる人びとのみでなく─の生活を決定しており、将来もおそらく、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで、それを決定するであろう。

 

 さらに、ウェーバーは、「鋼鉄のように堅い外枠」と化した資本主義を貫通する「合理化」、すなわち専門化・組織化・機械化は、近代の「宿命」であると次のように述べている。

 

将来この外枠の中に住む者が誰であるのか、そしてこの巨大な発展が終るときにはまったく新しい予言者たちがあらわれるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活がおこるのか、それとも—そのいずれでもないなら—一種の異常な尊大さでもって粉飾された機械的化石化がおこるのか、それは誰にも分からない。それはそれとして、こうした文化発展の“最後の人びと”にとっては次の言葉が真理となるであろう。“精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、かつて達せられたことのない人間性の段階にまですでに登りつめた、と自惚れるのだ”と。

 

 ヴェーバーの主張が真実であるかどうかは別として、シュトルツがそれに邁進していることは確かである。フリードリヒ・ニーチェは『悲劇の誕生』(一八七二)において、キリスト教道徳の受動性を明らかにしたが、少なくとも、資本主義はその価値観を転倒している。そこでは積極性が肯定される。近代は積極性=能動性が正統化し、消極性=能動性が異端になった時代である。それどころか、後者は罪になってしまう。資本主義とプロテスタンティズムの癒着には欺瞞がある。資本主義体制は大量生産=大量消費によって維持され、資本主義にとっての問題は働かないのではなく、消費しないこと、すなわち金を使わないことである。消極性が資本主義には最大の問題である。

 行動的に事業を展開している幼馴染と違い、オブローモフは所有している領地経営などやらなければならない問題は迫っているのに、具体的な行動をまったく起こせない。

 そんなオブローモフは、彼が少年時代にすごしたロシアの田園の夢を見る。

 

何一つ必要ない。生活は静かな河のごとく彼らのかたわらを流れている。彼らはただその河の岸に坐って、呼びもしないのに順々に、彼らの一人一人の前に立ち現れる不可避の現象を観察していればいいのだ。

 

 この風景はロマン主義者が見出した自然ではない。どこまでも静かで、のどかだ。老子の小国寡民の理想を具現したような民話の世界そのものである。この村に住む家族にとって午前中の最大の話題は昼食のメニューである。昼食が終われば、みんな昼寝をする。やがて日が暮れ、一日が終わる。「やれやれ一日が終わったわい。有難いこった。これで今日もまず無事に過ぎた。どうか明日もこうあって貰いたい。神よ、汝に栄えあれ!神よ、汝に栄光あれ!」

 ゴンチャロフは、オブローモフの村について次のように書いている。

 

 われわれはどこにいるのだろう。オブローモフの夢は何という祝福された大地の一角にわれわれをつれて来たことだろう。なんと驚くべき地方だろう!

 なるほど、そこには海もなければ、高い山もなく、厳壁も、深淵も、鬱蒼たる密林もなく──雄大なもの、野生的なもの、陰鬱なものは何一つない。

 またそのような、野性的な、雄大なものは、何の必要もないではないか。たとえば、海だが、そんなものに用はないんだ!海を見ていると泣きたくなって、海は人に物悲しい気持を起させるばかりだ。見わたすかぎりの水のシーツの前に立つと、心おびえて戸惑ってしまう。そしてはてしない単調な眺めには疲れた瞳を休ませるところもないのだ。

 

 この作家は、『オブローモフ』に限らず、回想のシーンになると、ほかの作品でも輝きをもって描く。近代化に積極的に賛成しているわけでもないが、反対しているわけでもない。もはやどこにもなくなり、記憶という場所にのみ生きられることを知りつつ、その風景を嬉々として書いている。「ゴンチャロフの魂には、ギリシア的な叙事詩のもつ牧歌的精神が生々と躍動していた。もちろん、底の底までロシア化された形ではあるが、彼は古代ギリシアの詩人達のみがもち得たような、あの大らかな、のどかな地上賛歌を見事に近代のロシアに再現した。彼は黙示録的な人間ではなかった。人類の運命とか世界の未来とかいう高遠な問題を背負い込んで、せかせかと、いかにもせわしげに、ひたすら未来を望んで前方へ突進しようとする当時のインテリゲンチャとは反対に、彼は悠々と後ろを振りかえり、いつまでもいつまでも立ち去りがてに足を停めている。彼には過去のロシアが懐かしい。過去のロシアを彼は愛する。スラブ民族の音楽ににじみ出ているような、深い哀愁をこめた、あのものうい夢見心地の過去の面影。そこでは生活そのものが、のんびり一休みしている。近代的文化の騒音にかき乱されることもなく、雲を掴むような哲学上の、もしくは道徳上の問題に心を煩わす必要もなく、昔ながらの素朴で清楚な生活形式の神聖な枠の中で人々は本当に幸福だ。生活の基準は始めからちゃあんと完成した形で与えられている。彼らはそれを両親から、両親はそれを祖父祖母から、そして祖父祖母は曽祖父曽祖母から、かつてのヴぇスタの聖火のように、神聖にして犯すべからずという遺言とともに、受け継いだものだ。だから彼らが今さら自分で何を考えたり、探求したり、興奮したりする必要があろう。()心労もなければ不安もなく、人間は何のためにこの世に生まれてきたのかなどという『愚問』を発する者は誰もいない。だからここではみんなが健康で、愉快だ。まるで大空を飛びまわる鳥達のように自由で呑気に暮らしているのだから。彼らにとっては、その日その日が、生の楽しい祝典なのである」(井筒俊彦『ゴンチャロフ』)

 

ジョンジョロリン、ジョンジョロリン

ジョンジョロリン、ジョンジョロリン

明るい日本はここにある

 

今日は日曜で何をしようか、せっかくの休みに

猫の毛でもむしろうか、やる事がないから

 

今日は月曜で何をしようか、一週間の始まりだから

もう一日休もうか、なりゆきだから

 

今日は火曜で何をしようか、昨日休んじゃったから

家を出るのも出づらいし、めんどうだから

 

今日もウダウダ朝が来て

楽してオネオネ昼になる

でんぐり返って夜が来る

 

ジョンジョロリン、ジョンジョロリン

ジョンジョロリン、ジョンジョロリン

ふとんは朝晩たたみましょう

 

今日は水曜で何をしようか、一週間の真中だから

今週の反省でもしようか、今日も休んじゃったから

 

今日は木曜で何をしようか、夕方まで眠っちゃったたから

ふとんをベッドにのせようか、おっこっちたままだから

 

今日は当然何をしようか、会社行った所で

いまさらデスクがあるだろうか、半年も休んじゃったから

(所ジョージ『夢見るジョンジョロリン』)

 

一九世紀初頭からロシアでは二つの思想潮流、すなわちスラブ派と西欧派が激しく対立している。前者は一八一二年の第二次ナポレオン戦争後に台頭した民族主義とドイツ・ロマン主義の影響を受け、反西欧・反合理主義・反近代を掲げている。キレーエフスキー兄弟やアレクセイ・ステパノヴィチ・ホミャコーフ、アレクサーコフ兄弟が代表的な思想家である。彼らは、マックス・ヴェーバーと異なり、ロシアと西欧の文化的差異をロシア正教会とカトリックの教義の違いに求め、カトリックに見られる合理主義が人間と理性への慢心を生み出し、西欧社会は内的な共同性を失ってしまったと主張する。もっとも、一七世紀後半、ロシア正教会の典礼改革に反対して多くのセクトが分裂している。彼らは「分離派」と総称され、「旧教徒」あるいは「古儀式派」とも呼ばれている。ピョートル大帝の欧化政策を否定し、家父長的な共同体を理想化する。さらに、一八八一年の農奴解放後は、リベラリズムもしくは汎スラブ主義に転換し、その中には、極端な反動的思想の源になっている。

一方、西欧派はピョートル大帝の路線を支持し、立憲制の導入および農奴制の廃止を主張する。代表的知識人は思想家ピョートル・ヤコヴロヴィチ・チャアダーエフやソルゲーネフ、詩人ネクラーゾフ、歴史家ティモフェイ・ニコラエヴィチ・グラノフスキー、革命家ゲルツェンとニコライ・プラドヴィチ・オガーリョフである。農奴解放以降、自由主義者と社会主義的傾向の急進派の二つに分裂する。

かりに『オブローモフ』がこの二派の対立を軸に展開されていたとしたら、シュトルツももっと精彩さを持っていたかもしれないが、同時に、作品自体は短絡的になっていたことだろう。オブローモフは、西欧派でもなければ、スラブ派でもない。両者は、どちらにしろ、主張するという点において、積極的である。彼はいかなる主張とも対立しない。それを吸収してしまう。しかし、その姿勢によって、後に言及するように、彼は近代を克服している。前近代的・前資本主義的・前国民国家的でありながら、だからこそ、オブローモフは近代・資本主義・国民国家を超えている。コオブローモフのごろごろしている姿はデカルトを思い起こさせる。二人ともゴロゴロして近代を眺めている。

オブローモフは、西欧派的な発想に対して、次のように言っている。

 

諸君は思想のためには心情など必要ないと考えているのかい? なんの、なんの、思想は愛によって肉づけされるんだ。堕落した人間には手を差し伸ばして、抱き起こしてやらなくちゃね。そうじゃなくて、もしその人が亡びていくのなら、それに心からの涙を流してやるべきであって、愚弄などすべきじゃない。堕落した人間を愛してやり、そのなかに己れ自身があることを記憶し、それを自分と同様に扱ってやりたまえ。

 

ヘーゲルの『精神現象学』によれば、人間は社会的存在であるという自覚を「労働」と「教養」によって成し遂げる。「労働」は自分の生が社会の多くの人々と協調によって可能であることを教え、また「教養」はさまざまな人間の営みの意味を認識させる。人間は社会において「労働」と「教養」を適切に積んで行けば、誰でも自らの自然な人倫を社会化していく。

オブローモフは、そういいたヘーゲルの認識に対して、次のように考えている。

 

それに、この人間の歴史そのものが憂鬱の種である。読んで覚えることといったら、──災厄の時代が到来して、人間が不幸に陥った、そこで人々は気力を奮って、働き、あくせくして、恐ろしい困窮を忍びながら、営々辛苦を重ね、朗らかな時代を準備してゆく。やがてその日が訪れて、今度こそ歴史自身も一休みできるか、と思うとさにあらず、ふたたび暗雲が襲ってきて、再度の営々辛苦の結果も崩れさり、人々はまたも働き、あくせくし始めなければならぬ…明朗な時代はしばらくも続くこともなく、急速に移ってゆく、──かくして人生は常に流れ、常に流れる、破壊につぐ破壊なのだ。

 

オブローモフは労働も教養も積まない。社会的存在理由などどうでもよい。オブローモフは他者に依存し、成長しない。これはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ファウスト』(一八〇一−一八三一)に対する完璧なパロディである。近代において、人間の本質は静的ではなく、瞬間的に変化する動的なものであるから、人間は成長するにつれ、発展してゆかなくてはならない。『オブローモフ』はそんな自立と成長の「教養小節(Bildungsroman)」ではない。

資本主義体制は、中間層を背景に成長したように、主要な消費者として循環する経済体制であり、失業者の増大は、彼らから購買力を失わせてしまうため、この体制にとって致命的である。資本主義は労働を賞賛しただけでなく、失業を罪にしてしまう。失業は働く能力があり、働く意志があるにもかかわらず、職が得られない状況に置かれた労働者の状態である。失業を測定する最も一般的な方法は、大恐慌時代のアメリカで発展し、「国際労働機関(ILO: International Labor Organization)」によって世界中に普及している。しかし、各国の失業率は異なった定義に基づいて測定されているので、失業率の国際比較は困難である。失業はその原因によって摩擦的失業・季節的失業・構造的失業・循環的失業に分類できる。摩擦的失業は、求職中の労働者がすぐに職につけないことから起こる。摩擦的失業の発生は、労働者が職を変える頻度や新しい職を見つけるのに要する時間に左右される。この失業は効率的な職業紹介事業によって減少するけれども、労働需給が変動する社会では、ある程度の摩擦的失業は避けられない。季節的失業は季節労働者の休閑期に生まれるものである。構造的失業は、使用者が求める労働能力と職を探す労働者の能力が一致しない状態から生じる。イノベーションは多くの産業で新しい技能を必要とし、時代遅れの技能者を離職させる一方、熟練労働者でも、労働需給がアンバランスな状態であれば、解雇されることがある。もし使用者が性別や人種、宗教、年齢、身分などにより不法な差別をすれば、労働需要が大きい場合でも、労働者の失業率は高くなる。最後に、循環的失業は、労働需要の一般的不足から発生する。景気循環が下降局面に入ると、財とサービスの需要が低下し、その結果、労働者は解雇される。

 

サーチン ジブラルタール! 世の中に泥棒よりいいものはねえな!

クレーシチ らくに金が手にはいる……あいつらは……働くわけじゃねえ……

サーチン らくに金の手にはいるやつは多いが、その金とらくに手を切るやつは多かねえ……なに、働く? 働くことがこのおれにも愉快になるようにしてくれ、おれだって、ひょっとすりゃ、働くかもしれねえ……そうさ! かもしれねえよ! 労働が快楽でありゃ──生活は上々だ! 労働が義務となると、生活は奴隷のそれよ! 

(マクシム・ゴーリキー『どん底』)

 

 二〇世紀最大の経済的・政治的・社会的問題の一つは失業である。失業は、大恐慌に始まる世界的な不況によって、一九三〇年代、社会をひっくり返している。失業はトラウマとしてこの時代を想起させる。二〇世紀は「失業の時代」である。消費が露出し、すべてが商品と化す。神さえも例外ではない。神の死は決定不能性に置かれてしまう。それは「ゴドーを待ちながら」(サミュエル・ベケット)の時代である。消費の機会を奪う失業は、体制の根幹に関わるため、社会問題化し、短くても、数年続く。とは言っても、失業は二〇世紀を通じてずっと社会を悩ませてきたわけではない。先進国では、六〇年代や七〇年代、先進国では失業は深刻な問題ではなかったが、失業率が上昇してしまうと、それは社会不安の最大の要因になる。失業率の改善はほかの社会問題──犯罪や教育現場の荒廃、自殺者の増加──を沈静化させる作用がある。八〇年代以降、EU諸国全体では、八五年に一〇%を超え、九五年三月には一一%に達している。その特徴は、一年以上の長期失業者の割合と二五歳未満の若年労働者の失業率が高い点にある。失業は、現代社会にとって、最も危険な兆候である。労働は積極的な生きがいと言うよりも、失業の恐怖からの逃走にすぎない。

資本主義体制はその自己保存のために、失業した瞬間に、人間の尊厳までも奪ってしまう。けれども、オブローモフには失業はない。彼は、ベッドの上でボーっと日々をすごしても、人間の尊厳を失うことはない。

 

第四章 労働と怠惰

キリスト教における七つの大罪の一つであるものの、一七世紀までは、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』によると、「怠惰(pareses: sloth: acedia)」は、一般的には、必ずしも罪ではない。むしろ、無知が罪である。先に触れたヘーゲルの「労働」と「教養」の契機は二つの時代をつなぐ論理である。勤勉が賞賛されているのはそれ以前でも同様である。古代ギリシアのヘシオドスの『労働と日々』、ルネサンスのレオン・バティスタ・アルベルディの著作には勤勉の徳が説かれている。しかし、古代ギリシアでは、と同時に、「スコレー」が尊ばれている。

シュトルツが「自分で自分が荷厄介になるぞ、今をはずしたらもう永久に機会はこないぞ!」と忠告したのに対し、オブローモフは次のように答えている。

 

「本当に、助けてもらいたいんだ!

僕は自分でもそれを苦にしているんだ。

僕がわれとわが墓穴を掘って自分の挽歌を唱っている有様を…。

僕は何もかも知っている。何もかも解っているんだ。が、力と意志がないんだ。

どうか君の意志と力と頭を分けてくれ。そしてどこへと好きな所へ連れていってくれ!」

 

 オブローモフは悲痛な叫びをあげる。彼にも怠惰が悪として認識されている。オブローモフは、善良で優しいが、農奴制によって、その天性の知性も才能も埋もれてしまっている。しかも、ロシアにおいても、牛の歩み程度であっても近代化が進み、貴族として備えるべき教育を受けているため、自分が怠惰で、社会にとって「余計者」であるということを自覚している。生活を一新させ、変わらなければと痛感しつつも、結局は何もできずに、苦悩するほかない。「知ってるよ、感じているよ…ああ、アンドレイ、ぼくはすべてを感じ、すべてを理解しているのだ。ぼくはもう前から、この世に生きているのが恥ずかしいんだ!」

「オブローモフシチナ」が「カラマーゾフシチナ」と並び称されている通り、「ロシア的」と評されるオブローモフが普遍性を持っているのは、世界が資本主義を体験したからである。資本主義は積極性=能動性を善とし、消極性=受動性を悪と見なす。彼は資本主義が非難する大罪を犯している。オブローモフの姿勢はサボタージュやストライキのような労働運動ではない。引きこもりにはたんに資本主義に対する抵抗があるだけでなく、それを克服する姿勢がある。

 先に引用したオブローモフ村の牧歌性は、のどかに見えても、農奴制に支えられている。貴族のオブローモフは農奴という奴隷に対する主人である。ヘーゲルは、『精神現象学』において、自己意識をめぐる「主人と奴隷」の寓話を説いている。「自己意識は即自的かつ対自的に存在するが、それは、自己意識が小文字の他者に対して即時的かつ対自的、すなわちもっぱら承認されたものとして存在する限りにおいて、かつそのことによってである」。私と他者という二つの自己意識は、自立的であろうとして、存在を賭けた闘争を始める。その関係は、両者が戦いを通じて、自分自身と相手を確認するように規定されている。自己意識が自立的であり、その正統性を主張しようとするならば、他者から承認されなければならない。自己意識は自立的であろうとすれば、自立的であってはならないというアポリアに直面する。そこで、他者を奴隷にする。こうして自己意識は奴隷から主人として承認される存在となる。

奴隷は、主人の命令で労働し、主人はそれによって暮らす。主人は自立的で、奴隷は非自立的である。けれども、主人は奴隷がいなければ生活していけなくなる。主人と奴隷の関係が逆転し、主人が非自立的、奴隷が自立的存在となる。「それゆえ、自立的意識の真理は奴隷の意識である。この自立的意識は、最初は確かに自己の外に出現し、自己意識の真理としては現れない。しかし、支配の本質が、支配がそう欲したものの逆であることを支配が示したように、おそらく隷従の方も、それが徹底して行われるならば、隷従が直接その反対になるであろう。隷従は、自己内へと押し返された意識として自己へと立ち帰り、真の自立性へと逆転していくであろう」。

オブローモフは、ベッドでゴロゴロして、ヘーゲル的な自己意識を拒絶する。自立しない主人を選択することになってしまうが、スラブ派の知識人のような過去への回帰を扇動的に促しているわけではない。彼は社会が変化していることを承知している。いかなる変化があろうとも、積極的に立ち向かうのではなく、無気力にただ受け入れているだけだ。それはガルゲンフモールである。

 

You're lazy just stay in bed

You're lazy just stay in bed

You don't want no money

You don't want no bread

 

If you're drowning you don't clutch no straw

If you're drowning you don't clutch no straw

You don't want to live you don't want to cry no more

 

Well my trying ain't done no good

I said my trying ain't done no good

You don't make no effort no not like you should

 

Lazy you just stay in bed

Lazy you just stay in bed

You don't want no money

You don't want no bread

(Deep Purple “Lazy”)

 

フリードリヒ・ニーチェは、『反時代的考察』(一八七三−七六)において、彼の生きている時代、すなわち「神の死」の時代を「労働の時代」と定義している。それは経済的有用性が支配する時代という意味であるが、産業資本主義をより効率的に促進させるために、政治体制の変革がヨーロッパで始まる。そこで選ばれたのが国民国家である。産業資本主義が経済的な自立の体制だとすると、国民国家は政治的な自立の体制である。失業は自立を奪う。排他的な反動思想はその失業と共に人々の間に浸透する。失業が悪と規定されたときから、それは人々にルサンチマンを抱かせるようになっている。失業という恐怖を感じず、怠惰でいることなど資本主義には言語道断である。失業は罪であり、怠惰は悪癖でなければならない。怠惰は、その消極的な姿にもかかわらず、積極的な意味を持っている。

けれども、ゴンチャロフは、オブローモフの生活態度を次のように記している。

 

イリヤ・イリイチは、さながら人生の金縁額のなかで生活しているようであった。それは、のぞき眼鏡と同様、ただ昼夜、四季のいつに変らぬ姿が入れ代るばかりだった。その他の変化、―ことに生活の底から滓、それもたいていは濁った苦い滓をかき立てるような、大きな偶然事は起こらなかった。

 

ヘーゲルの影響を受けたアレクサンドル・コジューヴは、『ヘーゲル読解入門』の第二版において、一九五〇年代以降の世界を考慮し、ヘーゲル的歴史の終わりの後、人間には二つの生存様式しか残されていないと分析している。一つは「日本的スノビズム」であり、もう一つはアメリカ的生活様式の追及、すなわち「動物への回帰」である。「合衆国はすでにマルクス主義的『共産主義』の最終段階に到達しているとすら述べることができる」。コジューヴはこのように「階級なき世界」の実現を宣言する。「日本的スノビズム」はともかく、彼はヘーゲル哲学が定義する「人間」に対して、アメリカ的消費者を「動物」と呼ぶ。この「動物」は環境に対して順応する創造物である。その根本は「欲望」である。動物は直接に欲望し、人間は他者を媒介して欲望する。他者の媒介によらず、直接的な欲望で充足してしまうことを「動物化」と呼んでいる。近代では、シジフォスの神話は無意味な労働の罰から、スポーツのような、娯楽となりうる。動物化された人間には「世界や自己の(言説による)認識はなくなる」。モダンの原理が「動物」であって、ポストモダンではない。ポストモダンの原理は欲望ではないからだ。「欲望といったものが、それほど普遍的なものか。それは時代によって変動している。欲望の概念の支配が頂点だったのは、一九七〇年ごろだったような気がする」のであって、「もっと問題なことは、欲望というものは、一時的にパワーを持っても、必ずバブル化して、やがて終わるということ」(森毅『欲望の行方』)。オブローモフの企ては植物化である。植物化は資本主義には悩ましい。稀代の怠け者が植物のような「ナマケモノ(Sloth)」になることで、『オブローモフ』は近代の真の超克を描いた作品である。

 

吾輩はナマケモノである。

動くのが、じゃまくさい。じっとしていると、そのうちに体に苔が生えてきたりする。

動物というと、動くことになっているが、とくにヒトという動物は二本足でチョコマカと動きまわっている。同じ動物でも、鳥は二本足で、ときには一歩なしでも、落ち着いてじっとしているのに、ヒトはじっとしているのが苦手らしい。じっとしていられないで、新しいところへ進むのを向上心などと言ったりする。

 動かないことでは、吾輩は植物に近いのかもしれない。植物だって、雨が降ったり日が照ったり、暑くなったり寒くなったりで、けっこう環境が変化する。じっとしているのが保守的なわけではない。むしろ、いろいろと環境が変わることを受けいれているのだ。

 ヒトのほうが、自分の気にいった環境というものにこだわって、そうした環境を求めたり、自分のまわりをそうした環境に変えようとしたがる。

 今までの環境にこだわることでは、彼らのほうが保守的なのであって、それを向上心などと言っているだけではないか。そしてその結果、地球環境はどんどん悪くなるし、ヒトなんか来てほしくないところへまでやって来る。困ったことだ。

吾輩は不精だから、環境を選んだりしない。そのことは一つの環境にこだわらぬということで、環境の変化には吾輩のほうが強い。いくらかは変化を楽しんでいる。ヒトは改革などと言いながらも、その実は変化をこわがっている。そちらのほうが、よほど保守的。自分が動かなくとも、環境のほうが勝手に変化するから、べつに退屈はしない。

そのかわり、自分の意志でなにかを選択しようといった意欲はもともとない。ヒトの世界でも、なにかと自分を見せびらかしたがるのは、チンピラの属性ではないか。老いて成熟するというのは、こんな無理をしなくてすむことだ。もっともヒトの世では、せっかく年をとったのになにかにこだわりたがる、老いたチンピラもいるらしいが、それは単に、新しい環境を受けいれられない保守性にすぎない。

吾輩は、その点では最初から成熟しておるのだ。なにが来たって、逃げまわる必要なんかない。苔を生やした老樹だって、逃げたりはしないじゃないか。老いというものは、世の変化を見てきたということであって、その変化を楽しみながら生きていくことである。

 行動的でないことはたしかで、世の変化に合わせてものを考えているだけ。思想に行動の伴うのをよいように言うヒトもいるが、思想そのものが頭脳の運動なのだから、わざわざ体を動かす必要はない。新しい天地など求めなくとも、自然の変化は向こうからやってくる。

 考えたこと表現するのも億劫だ。本当のところは、考えた内容なんてたいしたことじゃない。それよりは、木につかまって、ものを考えている姿。他人になにかを伝達する必要なんかない。

吾輩を見た他人が、ものを考えている姿を見てなにかを感じ、そこから勝手に自分の心のなかの運動を開始すればいいのだ。とことん吾輩は受動的。

 能動的であることを受動性より上におくのはチンピラの思想である。それよりは、それぞれに自分の世界を持って、その孤独を楽しむのがよい。交わりなどを求めずとも、世界そのものが変化して、歴史の流動を居ながらにして楽しめる。べつにその世界に自分を投入しなくとも、世は動く。そのほうが平和。ヒトのなかでも、そうしたことを説いた男を知っている。その名は、老子。

なによりいいのは、ナマケモノであるのになんの修行もいらぬところだ。禅というのも魅力的なところがあるが、修行が必要なのが気にいらぬ。修行の成果で悟るのじゃ、やはり向上心風ではないか。吾輩は最初から悟っておる。ヒッピーも禅などに憧れるよりは吾輩を見習え。無為にして化す。

それでは世のなかがまわらぬ、などと言いだす連中もいようが、世のなかなんてまわそうと思わんでもまわってしまうもの。そのまわる世のなかについていけんので、まわそうとしてあがいているのがヒトというあさはかな連中。つまりは、世のなかで生きていけぬ意気地なしじゃないか。そして、どうあがいたところで、生きているものはやがて死ぬ。そのことを悟るのに、自分が死んでみないとわからんのか。

体に苔を生やして、生きたままで古岩のように、死ぬ前から土と化す。

ああ、もう、原稿を書くのも、めんどくそうなった。

(森毅『ナマケモノ的生活のすすめ』)

 

第五章 労働と自由

 ドイツは、第一次世界大戦に敗北して以降、一九二三年を頂点とする歴史的なハイパー・インフレに襲われる。経済が破綻し、社会が混乱する中、ナチス、すなわち国家社会主義ドイツ労働者党が産声をあげる。一九一九年一月にアントン・ドレクスラーがミュンヘンで結党し、最初はドイツ労働者党だったが、一九二〇年ドイツ国民社会党と合併して、「国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)」に改名する。彼らは「ナチス(Nazis)」の通称で知られることになる。ところが、正式党員はわずか二五人で、しかもそのうちの六人が積極的に党の活動に取り組んでいたにすぎない。この弱小政党に、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラーという芸術家志望の人物が入党してから、状況が一変する。依然として狂信的政党にありがちな浅はかで支離滅裂な綱領であったけれども、彼はあっという間に党首へと昇進する。失業を背景に、ナチスの運動は急速に発展し、党は多数の人々を吸収して膨張する。その中には解雇された家事使用人、破産に瀕した商店主や小企業家、極貧にあえぐ農民、社会民主党・共産党に幻滅した労働者、混乱の戦後期に育ち、生活に必要な収入を得ることができない若者の大群が含まれている。

 一九三〇年九月の国会選挙で、ナチスは六五〇万票を集め、一八%以上の得票率を占め、一〇七議席を獲得し、一四八議席の社会民主党に次ぐ第二党となる。世界恐慌到来前の一九二八年の国会選挙においては、獲得投票数八〇万票、得票率約二・五%、議席数一二である。さらに、一九三二年七月の国会選挙になると、ナチスは一三七〇万票、得票率三七・四%、総議席数六七〇のうちの二三〇議席を占める。絶対過半数に達しなかったが、ナチスは第一党である。

新たな国会のための総選挙を数日後に控えていた一九三三年二月二七日の夜、国会議事堂が何者かの放火によって炎上したのをきっかけにして、共産党や社会民主党、引き続き、その他の全政党が非合法化され、ナチスが唯一の合法政党となる。

一九三三年三月二四日の全権委任法によって、国会は立法権を放棄し、その権限を政府に委譲する。この全権委任法により、ヴァイマール体制の共和制は終焉を迎える。ヒトラー政権は、いかなる内容であっても、ただちに法律として発布することができることになり、独裁体制を強固にする。一二月一日の法令によって、ナチスと国家は同一化される。当時、最も困難な問題は失業である。この時期ドイツの産業は、全能力の五八%しか操業できず、失業者数は六〇〇万から七〇〇万人と見積もられている。ナチスは極端な軍産複合によって雇用を確保して、失業率を事実上〇%にし、失業問題を解決する。商業・労働・農業・教育・文化の分野で、すべての組織がナチスの支配・命令に置かれる。「ナチズムはドイツ社会の諸問題を解決した。それは一〇〇〇年に亘って存続するだろう」(アドルフ・ヒトラー)

プロテスタント教会にも、ナチズムの教義が導入されたが、ユダヤ人は特別法によって法の保護から排除される。ナチスが政権を握った直後から、強制収容所がもう設立されている。秘密警察のゲシュタポが、共産党員や社会主義者、共産主義者、宗教者、エホバの証人、ユダヤ人など政治的敵対者を「保護する」という名目で監禁し、また、刑事警察のクリポは、常習犯罪者ならびにロム、同性愛者、売春婦などを「予防的逮捕」と称して拘留する。収容所の運営は、親衛隊(SS)の保安部が行っている。用意周到に準備を整えた上で、ナチスは、一九三八年一一月九日、「水晶の夜(Kristallnacht)」を実行する。

一九四〇年五月、SS隊長でゲシュタポ長官のハインリッヒ・ヒムラーは、ポーランドのクラクフの西約五〇キロメートル、すなわちビスワ川の近くに位置するアウシュヴィッツ(ポーランド名オシフィエンチム)に、占領下ポーランドとドイツ国内の収容所から送られてくる政治囚のための強制収容所を建設させる。「アウシュヴィッツ(Auschwitz)」という名称は、オシフィエンチム近郊に広がるこの収容所群の全体を指して、一般に用いられている。隣村ビルケナウ(ポーランド名ブジェジンカ)に広がる施設は、「アウシュヴィッツ第二収容所」と呼ばれ、四一年一〇月から稼働し、翌年八月には女子収容棟が併設される。ビルケナウには、シャワー室に見せかけた四つのガス室、死体を灰にするための四個の焼却炉が設置されている。さらに、アウシュヴィッツを中心にして、強制労働を目的とした四〇ほどの付属収容所があり、これらは「アウシュヴィッツ第三収容所」と呼ばれる。

 ナチスはそのアウシュヴィッツ収容所の入口に次のスローガンを掲げる。

 

ARBEIT(働けば) MACHT(自由に) FREI(なれる)

 

 私自身も、例えば、強制収容所において、この目で見たある若い女性の死を思い出す。その話は単純であり、多くを語る必要がないのだが、にもかかわらず、あたかも創作されたごとくの詩的な響きを持っているように思われる。

 この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。にもかかわらず、私と語った時、彼女は快活だった。「私をこんなひどい目に遭わせてくれた運命に対して私は感謝しています」と彼女は、何の修辞性もなしに、私に言った。「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを追ってはいなかったからです」。その最期の日に彼女は完全に内面の世界へ向いていた。「あそこにある樹はひとりぼっちの私のたった一人のお友達です」と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹がまさに花盛りだった。屈んで病人の寝台から外を見ると、バラックの病舎の小さな窓を通して、ちょうど二本のロウソクのような花をつけた緑の枝があった。「この樹とよくお話をするんです」と彼女は言った。私はその言葉の意味がわからず、ちょっとまごついた。彼女は虚妄状態に陥り、幻覚を見ているのだろうか?不思議に思い、「樹はあなたに何かを返事をしましたか?──しましたって!──では、何と樹は言ったのですか?」と私は彼女に尋ねた。彼女はこう答えた。「あの樹はこう申しました。私はここにいる──私は──ここに──いる。私はいる。永遠の命…」

(ヴィクトル・エミール・フランクル『夜と霧』)

〈了〉

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